昭和44年11月19日 朝の御理解
入力者=末永静行
御理解第84節
「おごりがましいことをすな。ものは、細うても長う続かねば繁盛でないぞ。細い道でも、しだいに踏み広げて通るのは繁盛じゃ。道に草を生やすようなことをすな。」
一時に儲け出したと言った様なのは繁盛じゃないという、ね、少しづつでもいい、細うてもいい、長う続かねば繁盛じゃないという事は、いわゆる、次第次第に繁盛していくという事、いわゆる、日勝り、月勝り、年勝り、代勝りという事でしょうね、それが本当の繁盛じゃと、パーっと儲け出して、またパート損してしまう、また儲け出してといったようなのじゃなくて、金光様の信心はだんだん、分かりやすく言うならば、信心が分かり次第、ね、信心の力が頂き次第に自然、自然におかげを頂いて行くと言うことが繁盛だと言うておられます。
昨夜、お月次祭を頂いてまいりまして、御初穂の整理やら色々終わらせて頂いて、そしたらまだ、昨日は末栄、いや、菊栄会の方達が会合その後にしておりましたから、会合が済むまで待っておりました。親先生とこたつの間で、まあ、お茶でも頂きながらというところへ済んで皆さんみえられました。
ちょういと何からだったですか、その、あの、写真が、あの、見事に構成されてアルバムに納められておるのが、昨日できあがっておりましたから、それを見せて頂いておりました。そしたら、まあ、次々と昔の写真の箱を出したもんですから、もうたくさんの写真を引っくり返して、皆7、80人もおりましたでしょうか、残ったもんだけで、とうとうお夜食モードーまでという風に、もう夜中の2時という頃まで信心話、夜な夜な話で過ごさせて頂いたんですけれども、その写真を引っくり返すようにして見せて頂きながら私感じたんですよ、はぁー、これは椛目時代、椛目早々の時の、これが五年祭の時のというて、まあ、たくさんな、それこそ、思いでの深い写真を見せて頂いてから、改めて思わせて頂いた。
私はこの合楽の信心こそ、確かに日勝り、月勝り、年勝りにおかげを頂いてきておるなあということでございます。もう、個人になっておられる方達もたくさんあります、ね、そう言う、その、思いでの深い写真を見せて頂いて、この時代はパートだったけど、この時代は少なく、絞れておるいって事じゃなくてね、まあ、例えば、お祭りならお祭りの写真を見せて頂きましてもです、それこそ、一年一年のおかげを受けておると言うのが写真に残っておるです。そして、その時、その時にいっぱしの、例えばお祭りでいうならば、その時、その時でいっぱしの御大祭が仕えられておるという事ですね。
五年祭の記念写真なんか、だーっと、その、家の周囲に提灯がついて、それはやっぱりね、吹流しがある、門が出来て、ね、あー今から見ると幼稚なもんでございますけれどもです、それでも、その時、その時にそれが一杯なものであるという事をその写真の中から感じ取る事が出来ます。
御本部参拝の写真でもそうです、ね、いろんな行事なんかの場合だって、確かに一年勝りに、いわゆる、まあ、細かくいうなら、日勝り、月勝り、年勝りにおかげを受けておるというですね、おかげを頂いてきて今日に及んでおるというのです、そして、まあ、なんともいえません奉仕におかげを受けて、今度の豊美の結婚式の最後の、いやば、写真を見せて頂きましてですたい、これからもどのようにおかげを頂いていくか分かりません、。 ここにおごりがましい事をすなとこうあります、ということは、これはもう一年勝りにおかげを受けていくならばです、ね、これは、普通で人が見たらおごりましいと思われるような様子になってくると思うんですね、家のたたずまいから中に住まわせて頂いておる私共の、なら、衣装、食べ物に至るまでがす、段々おかげを受けてこなければならんごつなっとる、ついてきてる、ね。
私は昨日、お祭りが済みましてから、夕べお供えになっておりました、それこそ、時価25万円という着物、これは100年間着れるそうですね、昨日秋永先生がいうておられました、大したもんですね着物、反物でも100年間着れる、ね、今日その着物を着せて頂いて一番口に両親達の所へ見せに行きました、これがあんた100万円の着物(笑い)、25万円の着物よちいうてから、そしたら、じっちゃまが着ちゃると同じごたっです、(笑い)、子供が、ほらじっちゃまと同じもんじゃないのうちいうてから、言うぐらいに似ますけども、しかし、なら、見れば見るほどなるほど値打ちがあるなという着物ですがねあーいう。ね。
いうなら、そういうですたいね、時価25万円もするような着物を着せて頂いておかげを、のところまでを、まあ、昨日、なら昨日、夕べなら夕べ、今日なら今日という事がです、ね、しかし、これからもっと素晴らしい事になってっくるという事だと思うんです私は、だから、なら私が25万円の着物を普段にただ着とっても、それは決しておごりがましい事じゃないって、過去がある、一、二、三、四というはしごの段を登っていくように一段一段おかげを受けてきてるのだから、これは私はおごりがましい事じゃないと、ちょっと儲けでたから、もう、それは着物を作ったというのと訳が違う、ね、さぁーものは作ったけれども、さぁーげっぷりはろうた日を応募しようと言ったようなのと訳が違う、ね。
昨日も、それこそ、時価100万円もするという、その、じゅうたんを敷いたおおせつ間に夜、行かせて頂いてからです、これは下のほうだけこげんようなって、これは上の方も段々ようならないけんから、ね、おそらくはあれにふさわしい調度品がまた一つ一つ増えていくに違いないです、それなら、決しておごりがましい事じゃないです、自分で買おうとか求めるというのじゃなくて、自然に身についてくる、だから、もっと、もっと素晴らしいものが身に付いてくるに違いはないという見極めが、をつけながら信心を進めていく、信心をする、そこに信心の楽しみがある。
本当に実際、目の当たりに見らなければしらごとのごたるですもんね、その話が、けれども事実だから仕方が無いというて、まあ、いう話をして頂いたんですがね。ね。
だから、問題は84節の、ね、いっぺんに儲け出したといったようなのは繁盛、繁盛じゃないと、一年一年おかげを頂いていくのが繁盛であるという、ね、だから、おかげを頂いていくまでの、いわば、基礎というものが先ず出来なきゃならないと、まあ、それを、言うならば、私共の何十年間の信心と同時に私共が引き揚げて帰りましてからの一つの基礎といったようなものがですね、その上に椛目があり、合楽があった訳でございます。 私は昨、ほんにもう、それこそ、何百枚あるか分かりませんほどしのたくさんの写真を見せて頂きながら、もう皆一枚一枚、あー皆さんが、それこそ、思いでの深い写真でございますから、皆がそれを見て時間のふけるのを夜明けのを忘れるようにして、その、写真を見せて頂いたがです、その写真の中にちゃんと歴然として残っておりますもん。
私の御結界の奉仕の姿の写真がいくらもあります、ね、第一この衣装が段々、段々変わってきてる、ね、だから、これはもう限りなく例えていうならば、この世の中にどのような贅沢な品物がもしあったにしてもです、ね、そういうものが段々、段々日勝り、月勝りの信、のおかげを頂いて身に付けていけるようになるという事が神様のお喜びだと私は思うのです、神様に、いや、氏子のために作ってくださるんですから、だから、おごりがましいという事を間違えてはならないと思うですね。いつかの御理解にもありましたように、贅沢とはつばだって取るのが贅沢だと仰る、自分の( ? )が足らないのをこうして取るのが贅沢だと、ね、一万円の給料しかとっとらんのに、一万二千円の生活する事は贅沢だと、10万円の給料をとっておる人が8万円の生活、9万円の生活をするのは決して贅沢じゃないという訳、ね、ですから、しかもそれがです、日勝り、月勝り、年勝りのおかげを頂いていくという事なんです。
私は本当に昨日写真を見てそれを、そういう、もう、本当に考えに至らせて頂きました、ね、現在の合楽と言うものがぽかっと今あるのじゃないち、20年間と言う間です、ね、その時、その時にいっぱしのおかげを受けておる、それが、日勝り、月勝り、年勝りにおかげを受けて今日があるのである、しかも、これはまた、限りなくおかげを受けていくことであろうという信心がです、私の心の中に昨日頂きましたです、ね。
地の真、水の心と、ね、地真水心という、それこそ、春爛漫というような華やかなおかげのその裏には、ね、その引当として地真水心の信心がでけてさえおればです、もう、限りなくそのようなおかげを頂いていく事、ね、いよいよ、合楽天国とでもいうかね、そういう理想に向かって一歩一歩進んでいけれる、合楽に御神縁を頂いておる人はです、皆が億万長者になれる。ね、それが、これぐらいの信心をさせて頂かなければならんという道を教えていただくのである。ね。はじめの間は細うところから、それをただいま申しますように、ね、いわば、合楽の信心の歩みとでも申しましょうか、その歩みというものを20年間振り返ってみてです、段々、段々おかげを受けてきておるという、その、事実が、そして、いよいよその信心の内容として地真水心と、ね、地の真、ね、大地の持つところの真、そう言う信心を自分の信心として頂いていき、水の心、ね、どのような姿、形の器に入れても、それに従うていく水の素直な心というものをです、ね、水の心を心として自分の心に頂いていく、しかも、天真爛漫ということを昨日申しましたですね、ね、天の心というのは、もう、与えて与えて止まない心、ね、地の心と言うのはそれを真をもって受けて行く、しかも、育み育てる力を養いながら、地の真を尽くしていく、限りなく素直にならせて頂こうと、そこにいつも焦点がおかれておる、どのような場合でも、ね、四角ければ四角、丸ければ丸い器に入っておる水のようにです、その水の心を自分の信心の一つ鏡、教えとしてそれを自分の心に頂いていこうという精進、そういう、そういう精進が一生懸命、その、内容としてなされていっておる。
踏み広げて通っとる訳であります、ね、最後に道に草をはやすような事はすな、ここんと頃が決めてですね、この御理解の、もう、限りなくです、ね、おかげを、ね、本当に合楽天国と、ね、合楽に御神縁を頂いておる人達は皆、いわば、この世うで極楽の味わいを身に付けさせて頂く、それをそのままあの世にも持って行けれるといったようなおかげを頂いていきたい。ね。
なんか、こう、花爛漫とか、春爛漫とこう言うと、なんかぱーとは華やかなそのものであって、それはまだパート散ってしまうような感じがする、普通ならそうであろうと、けれども、合楽の場合はそれにです、地真水心と言う信心がピッタリそれに裏表のように、共、揃っていってるという事、だから、絶対に去年よりも今年、今年よりも来年というようにです、おかげになっていくという事なんですよ。ね、
私はそういう一つの理想郷というものをですね、私は夢ではなくして、本当に目指さなければ、ね、それには、与えて与えて限りなく与える天の心、いわゆる限りなく美しゅうなりましょうという信心に一つ目覚めさせてもらわなきゃならん、だけではない、ね、地の真を、を、地の心を心として、いよいよ、豊かな大きな心、それでいて、もう水のような素直な心、かというて、なら水の生態と言うものがです、どんなにせき止められてもせき止められてもです、ね、水は下へ下へと、それを、やはり押し切るようにして流れていく、いわば、すさまじい水の力といったようなものを現しながら、おかげを受けていこう、そして、私は昨夜感じた、ね、ね、ここに十年間からのたくさんな写真ですから、たくさんな事、その写真を見せて頂きながらです、はぁーこの辺の時にはずうっと合楽も、椛目も下がりぎみじゃったなあ、この時分はずうっと上がってきとるなあといったようなものじゃなくて、その写真に現れておる一年一年おかげを受けてきておるの姿というものを見せて頂いてです、ね、25万円もする着物を昨日、夕べ着せて頂きながらです、それを実感するのです、とても、とても25万てんなんてんそれを、まあ、それを、ビックリする事はいらん、まだ秋永先生がいいよるとはまだ100万円の着物があるよと、ね、それは、着物を着ろうとか、ね、山海の珍味を食べようとかという事じゃ決してないのですよ、ね、ね。
私、昨日申しましたように、億万長者というのは億万のお金をこう貯めておくということじゃないということ、問題は億万長者の心なのだ、100万円に匹敵する着物ば着れれるような私の心なのだ、ね、ですから、限りがないでしょう、限りなく美しゅうなりましょう、ということになる訳です。ね。
そして、この一番茶色に、私はこのおごりがましいことをすなという事を皆が間違えておるような気が致します。ね、なんかこう、立派な着物やら、立派な良い食べ物やらば食べよったら、いかにも贅沢なように思うておるんですね皆が、贅沢ということは決してそうじゃない、贅沢と言うのはただいま申しますように、自分の力以上のもの、自分がつまだって通りよるような事をすることその事が贅沢なのですよ、おごりがましい事なんです。ね、それこそ、10万も、20万もするような着物が普段着に着れれるような、それが、ね、別に求めずして、別に、ね、金かって買わんならんといったようなことじゃなくして、着れれるようになるという事は決して贅沢ではない、当たり前なのだ、また神様も何のためにそんな素晴らしいものやら食べ物やらを、もし例えばね、高い食べ物やらを作ってくださるはずがない、人間氏子に食べさせてたいばっかり、人間氏子に着せてやりたいばっかり、どんな( ? )なお家だって、ね、そういう、例えば材料があるという事は、神様のそういうものを使わせて頂けれるだけの力のものに与えてくださっておるお恵みな物、だと分からせてもらう時に、それはおごりがましい事じゃないと、ただしです、そういう例えばおかげを頂いてまいりますとです、何とはなしに、浮いた浮いたという気持ちが誰の心にでも起きてくるところをです、地真水心と言うような信心をもって引き締め引き締めしていくということをです、84節の最後にはです、ね、道に草をはやすような事をすなと教えておられます、これがこの御理解の私は決めてだと、そういうおかげを受けていくという上にはです、ここんと頃がきちっと出けていかなければ、まあ、それこそ、高い所からまっさかさまに転落するような事にもなりかねないですね、ね。
だから、ここんところが、道に草をはやすような事をすなという、おれがさえ、皆さんもご承知でしょうけれども雑草というものはとってもとっても次から次ぎと生えるものです、そういう素晴らしいおかげを頂いた、お徳を受けた人達がです、ね、もう、あーいう、高徳な人達は草なんか生えんかと思いよった、決してそうじゃないのです、どんなに美田というて、いうてもです、やっぱり草は生えるようなもんです、いや、美田であればあるほどに草はよけい生えるという事です、油断しとくと、ね。
ですから、そこんところに教祖様はよういうちゃりますよね、道に草をはやすような事をすはと決め、決め付けておられます。もう、何時でしたか、久富繁雄さんのお父さんが参ってみえてから、ね、いわゆる、畑がほとんどと言われるぐらいの土居の事ですから、それをいわれるんです、もう、先生こん草ちうやつばっかりはもうちょいと油断しとるならもうてにおえんごと生えるやらでございますけんで百姓ちゃなかなか忙し暇がなかっちいうなことをいわれるとる、もう油断もすき出来ん、この雑草ばかりは、もう、こればっかりはあんたもう種蒔かんでんできますけんち言うてから、言われたことがありますが、ね、この雑草というものはです、どういうおかげを頂いて、ならどういう徳を受けた、受けてもです、受ければ受けるほど草は生える、いわば、可能性が強い訳です、それはそうですね、おかげは何も頂ききらんちいうたら、あれは不毛の地と同じ事です、いくら参っても庭を切らんのじゃから、ね、だから、雑草もやっぱ生えんです、不毛の地ですから、こげんとじゃつまらんでしょうが、ね、良い野菜なら野菜、良い花なら花が咲くような土地であればあるほどに雑草は限りなく、油断しとくとあっというまにうおう雑草にやられてしまうようなことになるから、そこん所を道に草を生やすようなことすなとこう仰っておられます。そういうおかげの頂いて行けれる道にですよ、草を生やすような事をすなと、ね。
どうでも一つ、昨日からこう続いて頂いております、いわゆる、天真爛漫の心の心、ね、邪気の無い心、与えて止まない心、ね、限りない美しい心、これが天真である、ね、その上にです、地の真を尽くしていく、地真である、その上にいよいよ限りなく素直になっていこうと言う水心である、ね、そこに、いわば、春爛漫と言うようなおかげ約束される、成る程、この調子で行くなら合楽の信心、信奉者のすべてがです、一人ひとりがです億万長者になれれるという事を思います、ね、それぐらい道がある、その道を教えてもらうのであり、辿らせて頂くのであります。
どうぞ、この、今日の84節の、ね、まあ、いろいろね、まあ、規制策やから、思いました事などからここで聞いて頂いたんですけれども、今日の一番の、私は皆さんが聞いとって頂かなければならん事は、道に草を生やすような事をすなということでございます、もう、これはお互いがおかげを頂く者は確定、絶対だものとしてなのです、ね、そういう時にです、本当におごりがましい事をして、また、高いところのおかげを頂いておるの者がいっぺんに転落するよう事のないようなおかげを頂くためにもです、ここん所を、やはり、うまずたゆまずの信心修行というものが必要である。
道に草を生やすような事をしてはならん、ここん所を一つ本気、どのように例えば私が億万長者に成りましてもおごりがましい事をしたり、道に草を生やすような事はいたしませんというものがしっかりこれにでけとかなければ億万長者になれんと思うんですね、そうでしょうが。
同時に、今日は、その、慢心、おごりがましい事をすなと仰る、おごりがましいとい事についての、まあ、本当の、いわゆる、真意とでも申しましょうかね、おごりましいという、その、は、こう言う意味なことをもっておごりがましいという、こう言うことはおごりがましいように、いかにも見えても、それはおごりがましいのではないという意味の事を今日申しましたですね。
どうぞ。
末永静行
2006年2月24日